極東の窓

ロシア極東連邦総合大学函館校がお送りする極東情報満載のページ。
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俳優ユル・ブリンナーの生涯

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の内容です。
テーマ:「俳優ユル・ブリンナーの生涯」
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(本校教授)

 
 ソ連時代、ユル・ブリンナーの映画はとても有名でしたが、彼がロシア生まれということを知っている人はほとんどおらず、ロシアでそのことが知られるようになったのは、ここ20年くらいのことです。 今日はみなさんに俳優ユル・ブリンナーの生涯についてお話したいと思います。
 あまり知られていないことですが、ユル・ブリンナーはウラジオストクの出身です。生まれた家が今もウラジオストクにあり、私もよくこの前を通っていましたが、そこがユル・ブリンナーの家とはまったく知りませんでした。今はユル・ブリンナーの生家であることを示すプレートが飾られています。

 1865年夏、ジュリ・ブリンネル(ユル・ブリンナーの祖父)と言う名の16歳の青年が中国の上海から日本へ向かう船に乗りました。彼はスイスにある自分の家から数ヵ月かけて、極東にやってきたのです。
 上海から横浜に渡った後、ジュリは横浜にあるイギリスの貿易会社で数年働きました。そこの経営者が亡くなったとき、会社と資産はジュリに引き継がれました。まだ若い企業家は日本人女性と結婚し、子供も生まれましたが、そのうち家族を捨ててウラジオストクへと移りました。
 ウラジオストクで彼はユーリー・イワーノヴィチというロシア名と父称を得ました。すぐに彼はロシア人女性ナタリヤ・クルクトワと結婚し、3人の娘と3人の息子が生まれました。
 息子のうちの一人、ボリス(ユル・ブリンナーの父)はウラジオストクの高校を卒業後、ペテルブルク大学に入学しました。そこで出会ったウラジオストクの医者の娘と結婚し、娘が生まれました。
 若い家族はウラジオストクに戻り、そこで1920年7月11日、息子が生まれるのです。その男の子は祖父と同じくユーリー(ユル・ブリンナー)と名付けられました。
 1924年、ボリスは仕事でモスクワに出かけ、そこで舞台女優エカテリーナ・カルナコワと出会います。ボリスはまもなく最初の妻と離婚してエカテリーナと結婚し、彼女とともに中国のハルビンに移ります。ユルはハルビンのYMCAの学校に入学します。
 1935年、14歳のとき、ユルは中国からパリへ行き、ここで有名な歌手アリョーシャ・ドミトリーエヴィチと知り合いになります。この年の7月15日、ユルはパリのキャバレーで歌手デビューします。ドミトリーエヴィチのギター・アンサンブルでジプシーの歌を歌いました。
 ジプシー・アンサンブルの仕事の後、ユルは2年間サーカスでアクロバットの仕事をしていました。
ある時、高いところから落下し、骨折の大けがを負います。その痛みを和らげるために病院でアヘンを与えられ、すぐにそれが習慣化してしまいました。
 退院後、中国やベトナムより密輸した麻薬を船員から買うようになりました。そして麻薬中毒を取り除くため、1年間スイスの専門のクリニックに入りました。
 1938年パリに戻った彼は、ロシアの劇場に入って勉強します。戦争が始まると、ユルは中国へ行き、父親と彼の妻、エカテリーナに会います。舞台女優であったエカテリーナが有名な舞台演出家ミハイル・チェーホフ(作家アントン・チェーホフの甥)に推薦状を書き、1941年、ユルはチェーホフのいるアメリカの演劇学校に入りました。そこで本名のユーリー・ブリンネルをユル・ブリンナーとアメリカ風の読み方に変えました。
 チェーホフの学校でユルは、衣装や舞台装置を運ぶトラックの運転手をしながら俳優の勉強をしました。そして1941年12月2日、俳優として人生初の役を演じました。
 はじめは英語の発音がむずかしく、数ヵ月間、彼はフランスのラジオ局「アメリカの声」でアナウンサーとして働きます。そして徐々にロシアなまりから解放されました。
 1943年、突然ユルは映画スター、ヴァージニア・ギルモアと結婚します。そしてユルは有名な俳優となりました。ほかにもジュディ・ガーランド、マレーネ・ディートリッヒ、マリリン・モンロー、イングリット・バーグマンといった有名女優たちと浮名を流しました。
 もちろんこのロマンスは、彼の妻を喜ばせませんでした。20年後に二人の共同生活は終わりました。その後の人生で、ヴァージニアは二度と結婚しませんでしたが、ユルはあと3回結婚しました。
 1946年、ユルとヴァージニアはニューヨークに移りました。ここでユルはレストランの運転手やドアマン、写真のモデルとして働き、夜はナイトクラブで歌を歌いました。1946年12月、息子が生まれました。翌年、夫妻はテレビの仕事を得て、ユルは同時に劇場で役者の仕事ももらいました。彼は全米で公演するようになりましたが、それは二番手的な役でした。
 その頃、有名なブロードウェイの作家、ロジャース&ハマースタインがミュージカル「王様と私」を書きました。女優のメアリー・マーティンがユルを王様役に推薦し、この瞬間にユルの栄光が始まりました。
 1951年2月26日にミュージカルが初演されました。ユルは役に自分の極東での子ども時代の思い出や自分の歌の能力、アクロバットのスキル、ミハイル・チェーホフの下で学んだことなどを取り入れました。  ほかの出演者が普通の衣装なのに対し、ユルは肌を露出し、裸足で演じました。日本への憧れも強く、顔には歌舞伎を想像させる化粧を施しました。
 初演は成功を収め、彼は30年間で4633回「王様と私」に出演しました。
 1956年には映画版の「王様と私」を制作し、1957年に彼はこの役でオスカーを獲得しました。「モーゼの十戒」ではファラオを演じました。1958年にユルは黒澤明の「七人の侍」をリメイクしようと決め、1959年に作業を開始、映画「荒野の七人」を制作しました。1960年に公開され、世界的に、そしてソ連でも素晴らしい興行成績を収めました。
 「華麗なる一族」の後、映画人生にピリオドを打ち、次第にユルは観客からも忘れられようとしていました。
 1958年からはスイスに住んでいましたが、1972年にアメリカに戻り、テレビシリーズ「アンナと王様」に出演しました。これは興行的には不成功に終わりましたが、ユルは再び好きな役を得て幸せでした。
 1977年5月18日、長い間中断していた「王様と私」をブロードウェイで再開させました。この瞬間に、ユルの栄光は復活しました。その後8年間ステージに立ち、常に何か新しいものを役に取り入れました。
 1983年4月には上演4000回を数えましたが、その喜びを打ち消す出来事が起こりました。彼は自分が肺がんを患っていることを知ったのです。15歳の時からヘビースモーカーで、1日に2~3箱も吸っていました。彼は50歳でタバコを止めましたが、もうすでに遅かったのです。
 1985年7月半ば、ユルはトニー賞(アメリカの演劇・ミュージカルに贈られる賞)を受賞し、同じ月の30日がブロードウェイでの最後の上演となりました。 
 ユルは自分の人生がまもなく終わることを知っていました。そして最後の日々をテレビでの禁煙キャンペーン活動にささげました。
 「私が死ぬのはタバコをたくさん吸ったからだ。これを見ているみなさんに言いたい、運命をもてあそぶな、と。」―このテレビCMは彼の死後、放映されました。彼が亡くなったのは、1985年10月10日のことでした。
 これが俳優ユル・ブリンナーの、波乱に満ちた生涯です。