極東の窓

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ロシアの国民的詩人・プーシキン

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第2回目の講話内容です。
テーマ:「ロシアの国民的詩人・プーシキン」
講 師:アニケーエフ・セルゲイ(本校教授)
 あるロシア文学者がプーシキンについてこう語っています。「プーシキンを読めば、ロシア人は遠く旅行をし、多くの本を読んだような気分になれる。」
 ロシアではすべての人がプーシキンを知っていると言っても過言ではありません。プーシキンの名前を聞くとロシア人の心は喜びと軽やかさと感謝でいっぱいになります。プーシキンと同時代の作家ゴーゴリは彼についてこう言っています。「プーシキンは並外れた人で、ロシアの魂の唯一の現れである。200年先のロシア人ほどに進化した完璧な人である。」作家のアクサーコフはこう書きました。「プーシキンの詩は善(恩恵、恵み)そのものである。」哲学者のロザーノフはこう予言しました。「もしプーシキンが長生きすれば、ロシアの歴史はすっかり変わってしまうかもしれない。」批評家のアイヘンヴァルトは「プーシキンの詩には人の上下関係・貴賤がない。彼は奴隷も皇帝も平等に詩に詠った。彼の詩には聡明さと調和と不変の深いオプチミズムがある。」と指摘しています。
 どうしてロシア人はプーシキンをこんなに身近に感じるのでしょう。私たちの大好きな詩人の人生をのぞいて、その答えを探してみようと思います。
 アレクサンドル・プーシキンは1799年6月6日にモスクワで生まれました。彼の父親は見栄っ張りの貴族でしたが気が弱く、母親は反対に強くて威圧的な女性でした。プーシキンの曽祖父はエチオピアから来た、ピョートル大帝に仕えるアフリカ人であり、母は黒人だった祖父の情熱的なアフリカ気質を受け継いでいました。プーシキンは子ども時代を姉のオリガとともに過ごしましたが、6歳までは太った、活発ではない子でした。7歳からフランス語を習い始め、その後ロシア語を習いました。9歳から自分の家にあったフランス語とロシア語の本を読み始めました。彼に教育したのは両親よりも乳母のアリーナ・ロジオーノヴナでした。結果的にはこのことがロシア文学に大きな恩恵をもたらしたのです。
 1811年、プーシキンはペテルブルク郊外にエリート養成のために創設された貴族の寄宿学校、リツェイに入学しました。この学校での生活はスパルタ式でしたが、当時としては非常に良い教育を受けました。この寄宿学校時代、もうプーシキンは授業中やお祈りの時間に詩を書き始めていました。この時すでに何人かの先生が、プーシキンの天才的な創作能力の開花を予言していました。
 フランス語とロシア語以外は中くらいの成績でリツェイを卒業すると、下級官吏として外務省に勤め始めました。年収はわずかに700ルーブルで、生活するのがやっとでした。貧しさは一生を通じて彼につきまといました。
 リツェイを卒業後、プーシキンは社交生活に夢中になりました。その生活を一言で言うならば、「恋と自由」。彼は情熱的で自由を愛し、惚れっぽく、しかしハンサムではありませんでした。彼はしょっちゅう恋をしていて、後にドンファンみたいに付き合った女性のリストを作りました。そこには16人の女性の名前がありました。実はこういうリストは2枚あり、1枚目は真剣に恋した人のリスト、2枚目はそれほどでもなかった人のリストでした。それぞれ16人ずつ、合計32人というわけです。実に惚れっぽい人でした。最後の名前はナタリア・ゴンチャーロワ、後のプーシキンの妻です。
 1820年、彼の書いた「自由」、「田舎」という詩のせいで、彼は皇帝から南部に追放されました。南部に行く前にプーシキンは友人と一緒にペテルブルクの有名な占い師のところに行きました。その占い師は「長生きするだろう、ただし37歳の時に背の高い金髪の男に殺されなければ……」と予言しました。プーシキンを殺したのが背の高い金髪の男であったことはよく知られています。しかし、この陰気な予言を聞いても彼はふさぎ込んではいませんでした。生きることを愛する彼の心からは次々とすばらしい詩が生まれました。
 南部への追放でプーシキンはクリミア半島、カフカス、キシニョフ、オデッサを訪れました。そしていたるところで、ロシアの詩の珠玉と言われるような傑作を生み出しました。特にオデッサとキシニョフでは図書館で長い時間を過ごし、多くの詩を書きました。
 1824年に追放は解かれたのですがペテルブルグに住むことは許されず、乳母とともにプスコフ州のミハイロフスコエ村に住むことになりました。この時期は彼にとってつらいものでした。父とはけんかをしていましたし、そばに友達もいない上にお金もありませんでした。プーシキンは何度も外国行きの許可を申請しましたがいつも却下されていました。そういう訳で、一度もヨーロッパへ行くことはできませんでした。
 こういう生活の中に差し込んだ一筋の光となったのはヴリフ家の人たち、特にアンナ・ケルンと知り合いになったことでした。このアンナにはロシアばかりでなく世界的な詩の傑作「忘れ得ぬすばらしきあの一瞬」を捧げています。
 1826年、彼は直々に皇帝ニコライ1世のもとに呼ばれ、皇帝は自分がプーシキン専属の検閲官になってやろうと申し出ました。世界の詩の歴史の中でも非常にめずらしいことと言えるでしょう。皇帝自身が詩人の検閲官になるなどということは、まずありえないことです。
 この時プーシキンはモスクワに住むことを許されました。これから1830年までが、彼の人生の絶頂期でした。しかし自分の家も家族もありませんでした。彼は結婚することに決め、続けて二人の若い女性に求婚しましたが、断られてしまいました。最後にゴンチャローフ家が娘のナタリアとの結婚を承諾しました。プーシキン自身はこの若い妻をあまり愛していなかったようです。プーシキンは妻の中に理想の女性や天使を見つけようとし、若くて純真な妻とともに家庭的な幸せを探しました。しかし、ナタリアは彼を理解せず、ここに結婚の致命的な誤算がありました。
 プーシキンには4人子どもがいました。美人のナタリアは出産の合間に舞踏会で踊りました。とてもダンスが好きで、そのせいで流産してしまったほどでした。
 
 皇帝はナタリアを舞踏会に来させたいので、プーシキンに特別に「侍従」という位を与えました。これは普通ごく若い人に与えられる位でしたから、彼のような年齢の者にとっては屈辱的なことでした。ナタリアは既婚婦人でしたから、一人で舞踏会に出かけるわけにはいきませんでした。プーシキンが宮廷や社交の場に来るように、そしてナタリアもそういう場に来られるように皇帝はこの位を与えたのです。
 プーシキンは彼女が社交界に出ることを嫌いました。ナタリアは彼より背が高く、素晴らしい女性でした。この二人のことを「美女と野獣」と呼んだ人さえいて、プーシキンはこのことがとても嫌でした。
 結局、このような社交界の生活がナタリアをタンデスにめぐり合わせることになりました。タンデスはフランスの士官で、オランダ大使の養子でした。とても背が高くて金髪で、女性に人気がありました。彼とナタリアの関係が実際にはどんなものだったのかは今も謎です。妻が夫を裏切ったのか、あるいは社交界の陰謀の犠牲になったのかはわかりませんが、取り返しのつかないことが起こりました。プーシキンが殺されてしまったのです。
 彼は妻の不貞を知らせる匿名の手紙を受け取りました。彼はタンデスに決闘を申込み、タンデスはピストルで決闘することを承諾しました。プーシキンは妻にはこのことを話しませんでした。ですから、彼女は全然知らなかったのです。決闘の日もプーシキンはいつもと同じように机に向かい、ある女流作家の本を読んで、彼女に手紙を書きました。これが最後の手紙であり、彼が最後に書いたものでした。この手紙からはこれから決闘に行く人が書いたなどということはまったく感じられません。とても落ち着いた調子で書かれています。
 決闘が行われたのはチョールナヤ・レーチカというところで、冬で雪が深く積もっていました。弾はプーシキンの腹部に当たり、彼は雪の上に倒れました。自宅に運ばれた時には起き上がることもできませんでした。彼は3日間、傷と戦いました。そして死の前に子どもたちに順番にキスをして別れを告げ、妻には「君のせいではないよ。」と言いました。彼が死んだのは書斎でした。プーシキンの蔵書は1万から1万4千冊あったと言われています。本棚の本に向かって彼は「さらば、友よ。」と言ったのです。彼の最後の言葉は「我が人生は終わった。息が苦しい、息が詰まる……」というものでした。
 1837年2月10日2時45分、彼の心臓の鼓動は止まりました。この瞬間、詩人のジュコフスキーはプーシキン家の時計を止め、その針は永遠に動きを止めました。プーシキンの友人の詩人ヴィゼムスキーは弔辞にこう書きました。「ロシアの詩の太陽が沈んだ。」
 プーシキンの遺骸はプスコフ地方の修道院にある墓に今も眠っています。
*このほか、プーシキンの詩をアニケーエフ先生が朗読したり、詩から作られたロシアのアニメを見ました。