極東の窓

ロシア極東連邦総合大学函館校がお送りする極東情報満載のページ。
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「作家ウラジミル・ナボコフ」

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第7回目の講話内容です。
テーマ:「作家ウラジミル・ナボコフ」
講 師:パドスーシヌィ・ワレリー(本校教授)
 ロシア出身の作家ウラジミル・ナボコフ(Владимир Набоков 1899~1977年)は偉大な作家であり、ロシア語だけでなく英語で小説や詩を書いたことでも知られています。日本では特に小説「ロリータ」が有名です。それは“ロリータ・コンプレックス”という言葉が日本で生まれたことも影響していますが、実際には“ロリコン”とこの小説はまったく関係がありません。
 ナボコフは私の大好きな作家でありますが、その出会いは遅く、1977年に彼が亡くなった時、当時のソ連ではなくアメリカのラジオのニュース報道でこの作家の存在を知りました。そしてペレストロイカの終わり頃に初めてその作品を読みました。
 ナボコフはサンクト・ペテルブルクの非常に裕福な家に生まれました。父はアレクサンドル2~3世時代の法務大臣を務め、母親も金鉱を所有するような金持ちでした。5人兄弟です。裕福なだけでなく、ロシア語・英語・フランス語を話す大変教養のある家族でした。1964年、アメリカの雑誌「LIFE」のインタビューではこう答えています。「私の頭は英語で話し、心臓はロシア語で、耳はフランス語で理解する」。
 生家は今もペテルブルクのイサク聖堂の近くにあり、郊外の別荘も残っています。幼年期には読書に没頭し、まずは英語で詩作を開始します。16歳の時おじが亡くなり、莫大な遺産を得たため、そのお金で詩集を出版します。
 ところが、10月革命が起こり家族はロシアを出国、クリミアに逃がれます。まだクリミアにはボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、レーニン率いる左派の一派)の手が延びていなかったため、貴族が多く逃げ込みました。そこでナボコフは「ヤルタの声」という雑誌に短編を発表し、成功します。
 1919年4月、ナボコフ家はロシアを出国します。裕福ではありましたが、ちょっとした宝飾品ぐらいしか持たずに出ました。それでもそれを売って得たお金でナボコフはケンブリッジ大学を卒業し、何年か家族が暮らせるほどの金額になりました。
 ケンブリッジ大学でも短編小説の執筆や詩作、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」のロシア語訳などを行いました。今も存在するケンブリッジ大学のロシアクラブの創始者でもあります。
 卒業後は家族が亡命して住むベルリンに戻り、15年間暮らしました。お金も使い果たし、生計のために英語のレッスンを始めました。この年、スベトラーナ・ジーベルトと恋におち婚約しますが、職もお金もなかったため、結局別れました。
 幸か不幸か、3年後に生涯の妻となるヴェーラと出会います。彼女もペテルブルクの出身で、出会ってからは別々になることはほとんどありませんでした。離れていたとしても毎日手紙を書きました。一昨年末、「ヴェーラへ」という本がアメリカで出版されるほど、手紙を書きました。ドミトリーという一人息子がおり、2012年に亡くなりました。
 結婚後「マーシェンカ」という小説を発表しました。1983年までに8つの小説を書きますが、どれ一つロシアでは出版されませんでした。ほかのヨーロッパでは出版されたので、そこに住むロシア人の間では有名でした。
 1937年のベルリンには、ナチズムの影が延びていました。ヴェーラはユダヤ人であったので身の危険を感じ、パリに移動します。パリにもナチスの脅威が忍び寄り、アメリカに渡ることができる最後の船でパリから逃れます。それ以降、ナボコフのアメリカでの著作活動が始まります。
 アメリカ人の開放性、率直な空気は彼の気性に合い、気に入りました。その後、生涯ロシアに帰ることはありませんでした。もちろんお金はなかったので、常に仕事を探し求め、友だちの家を渡り歩いたり、安アパートに暮らしました。
 その頃アメリカの作家エドマンド・ウィルソンと出会います。彼の紹介でマサチューセッツ州の小さなカレッジで教えたのち、コーネル大学で教職を得て、ロシア文学を教えます。講義ノートは3冊の本になって出版されました。ナボコフのふるまいは他の教員とは違っており、学生の間ではとても人気がありました。英語能力はありましたが、アクセントはヨーロッパ風でした。
 コーネル大学時代、作品に変化が生まれます。ヨーロッパで書いた初めての英語による小説「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」はすでにアメリカでも出版されていました。英語の読み書きは普通にしていましたが、小説を書くには多少のむずかしさがありました。1947年「ベンドシニスター」を発表し、1953年、人生最大の変化を巻き起こす「ロリータ」を発表します。ナボコフ自身も最高傑作だと思っていました。
 中年のヨーロッパ人(どこかは明らかにしていません)はアメリカの大学の教師となります。妻となった女性の12歳の娘を愛するというショッキングな内容で、当時のアメリカでは出版不可能でした。しかしまずパリで出版され、裁判などを経て5年後の1958年にアメリカで出版されます。様々なスキャンダルが取り巻き、そのおかげで彼の名が知られました。本も売れて商業的にも成功し、予期せず富が手に入り、おかげで大学の職を離れます。
 そして新しい小説「プニン」を発表、主人公のプニンはアメリカの大学で教えている中年のロシア人という設定です。「ロリータ」とは違うジャンルでしたが、本の宣伝文には“あの「ロリータ」の作家による”と付き、その後ある一定の注目を集めることになります。
 お金持ちになったナボコフ夫妻は、ヨーロッパを3か月間周遊します。当時息子のドミトリーはミラノの学校でオペラの勉強をした後アメリカに戻り、「ロリータ」映画化のシナリオ執筆に没頭します。スタンリー・キューブリックが62年に映画化し、98年にはイギリスのエイドリアン・ラインが2度目の映画化をしています。
 1962年夏の終わり、再びヨーロッパへと移ります。これがナボコフがアメリカを見た最後となり、それ以降亡くなるまで、スイスのモントルーで暮らしました。
 蝶の収集に、一生情熱を持ち続けました。ナボコフにちなんだ名の蝶もあります。晩年の15年間はスイスで平穏に暮らしました。
 あるアメリカの雑誌のインタビューでは、冬は7時に目を覚まし、ベッドに横たわったまま一日の計画を練る。8時に朝食を食べ、そのあと風呂に入る。それから昼食まで書斎で仕事をする。時々この時間に妻と湖のほとりを散歩する。だいたい1時頃昼食を摂る。1時半からふたたび机に座り、休みなく6時半まで働き、英語の新聞を買いに店に行く。7時に夕食、その後何かの仕事をする。9時頃に寝床に着く。11時半まで本を読み、それから約2時間不眠症と闘う。大変規則正しい生活です。
 1962年に「青白い炎」を発表、これは世界文学最大の謎に満ちた作品です。ナボコフは作品を執筆するだけでなく、ロシア文学の翻訳や講義など、ロシア文学を世界に広める役割にも当たりました。プーシキンの「エフゲニー・オネーギン」を英訳して発行します。これは大作で、長年取り組みますが、詩の形式による小説であり、詩を訳すことは不可能であると自分で決めて散文の形で出版します。
 彼は自作がロシアで翻訳され、読まれてほしいと願っていました。そして息子のドミトリーがすべて、英語から翻訳しました。ナボコフ本人が訳したのは「ロリータ」だけです。私も読みましたが、すばらしい翻訳です。ナボコフにとってのロシア語は20世紀前半のもので、言い回しが古くさいところもありますが。
 1974年最後の作品「道化師をごらん」は自伝的小説で、主人公の境遇はナボコフにそっくりです。唯一違うのは、小説では主人公が1度ロシアに帰国しています。ひょっとしたら小説に自身の願望を託したのかもしれないし、そうでないかもしれません。
 1975年散歩中に骨折、手術は失敗に終わり、合併症を引き起こし1977年7月に亡くなります。彼の隣には常にヴェーラがいました。ヴェーラは1991年に亡くなりました。