極東の窓

ロシア極東連邦総合大学函館校がお送りする極東情報満載のページ。
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ニコラエフスク―日本(函館)と様々な『縁』で結ばれていた町

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度6回目の講話内容です。
テーマ:ニコラエフスク―日本(函館)と様々な『縁』で結ばれていた町
講師:倉田 有佳(本校准教授)
 ウラジオストクについては、函館校の本校があり、函館市の姉妹都市であることもあり、比較的よく知られているのではないかと思います。これに対して、本日取り上げるニコラエフスクは、かつて函館と様々な「縁」で結ばれていたにも関わらず、今では忘れ去られているのではないでしょうか。そこで本日は、今年9月に5名の研究者と共に訪れた際の写真も交えながらお話しをしたいと思います。
 ロシアでは、ニコラエフスクの開基は1850年。創建者はゲンナジ・ネヴェリスコイと言われています。初代駐日ロシア領事ゴシケーヴィチ、そして修道司祭ニコライが船で日本にやって来た際の出立の地(港)がニコラエフスクであるなど、かつては極東の中心地でした。町の産業は、漁業・金鉱業・獣猟(柔毛皮)・海運業でした。金鉱は町から離れたアムグン川流域にありました。ちなみに、現在のニコラエフスクの主要産業も、「金鉱業」だそうです。
 1870年代になると、ウラジオストクに中心が移ったことで、ニコラエフスクは一時衰退します。しかし、20世紀初頭、日本の漁業者が鮭鱒を求めて急増したことで、町には活気が戻ります。日露戦争後、日本の漁業資本の進出がめざましく、邦人保護を目的として日本領事館が設置されました(1908年―20年)。1896年に48人だった日本人は、1916年には381人にまで増えました。
 そうした中で大成功を収めた日本人が長崎出身の島田元太郎でした。1896年に「島田商会」を開き、政情不安定な国内戦争期には、島田札という買物券を流通させたほどの人物です。
 1920年、尼港事件が起こりますが、1920年という年は、年の初めに反革命派(白衛軍)のコルチャーク軍がシベリアのチタで完敗し、ウラジオストクではロザノフ政権が倒れたため、革命派は力を一気に増しました。尼港事件当時、ニコラエフスクには日本軍が300人以上駐留していました。革命派の方は非正規軍、パルチザンですが、その数はハバロフスク方面からニコラエフスクにたどり着いた頃には、4,000人以上にも膨れ上がっていました。
 3月になり、港が結氷し、陸の孤島状態となっていたニコラエフスクに犬ぞりでパルチザンが来襲し、日本軍は敗北を期します。この時、ロシア人住民の中の反革命家や資産家もパルチザンの犠牲となりました。さらに結氷期も終わりに近づいた5月、日本軍の軍艦がやって来るという知らせを聞くと、パルチザンたちは日本の軍人だけでなく、民間人を虐殺し、領事館に立て籠もった外交官(石田副領事一家)は自決の途を選びました。パルチザンは、ロシア人住民を伴ってタイガに退却する際にニコラエフスクの町を焼き払いました。
 事件当時、尼港にいなかった島田元太郎は無事でした。事件後現地に赴いた島田は、またおよそ700人とも言われる日本人犠牲者の慰霊碑を建て、尼港事件の損害賠償を政府に求める運動の先頭に立ち、日本政府から異例の三次にわたる救恤を実現させました。犠牲者は、長崎や熊本の出身者が最も多かったのですが、函館出身者も含まれていました。島田商会は1921年5月に別の場所に再建されますが、その際、金銭的支援を行ったのが、漁業者として日本人で初めてニコラエフスクに進出し、当時は伊予銀行頭取となっていた八木亀三郎でした。
 ニコラエフスクとも函館とも縁が深いロシア人としては、函館のロシア語教育に寄与された成田ナデージダさん、そして「リューリ商会」をニコラエフスクに開いた漁業家のリューリ(現「川越電化センター」は同商会の元店舗)が挙げられます。
 最後に、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレに目を向けると、小規模ながらも近代的な設備を伴った空港が最近できたものの、町全体は寂しいものです。空港内には1855年に同地を訪れたモジャイスキー(日本ではプチャーチン提督一行に同行した画家として知られていますが、ロシアでは「飛行機の父」として有名です)の記念板がありましたが、まさに過去の遺産に頼るだけの町は、道路もアパートもメンテナンスが十分に行われているとは言い難かったです。
 振り返ってみると、ニコラエフスクと函館は、町の盛衰の時期や特徴がほぼ一致していることに気付かされます。つまり、幕末開港期・18世紀半ばに町は発展し始め、ニコラエフスクに代わりウラジオストクがロシア極東の拠点となった1870年代に一時衰退します。ところが20世紀初頭、露領漁業の勃興により、街は飛躍的に発展します。
 ロシア語で魚卵を意味する「イクラ」は、日本に取り入れられたロシア語の筆頭として挙げられますが、日本で最初に「いくら」(当初はひらがな標記)という言葉が使われるようになるのは大正初期、函館の漁業者からです。ロシア人もまた、ニコラエフスクで獲れた鮭鱒から「赤いイクラ」をロシア人向けに製造し、第一次世界大戦後、広く食されるようになったのです。ちなみに、それ以前は、「イクラ」と言えば、カスピ海のチョウザメの卵(キャビア。ロシア語で「黒いイクラ」)を指していました。
 このように、かつてはニコラエフスクが函館と様々な「縁」で結ばれていたことを、頭の片隅にでも置いていただければ幸いです。