極東の窓

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ロシア領事館と函館 幕末開港期から現在 

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。
テーマ:「ロシア領事館と函館 幕末開港期から現在」
講 師:倉田 有佳(本校准教授)

 函館には現在までに3つのロシア(ソ連)領事館が開設されました。この3つの領事館は、設立の経緯や目的、そして業務内容まで、それぞれに異なっていたことをご存知でしょうか。
 最初の領事館は、幕末開港期に日本で最初のロシア領事館として開設されたもので、1858年の初代領事ゴシケーヴィチの着任に始まります。1860年には領事館が現在のハリストス正教会の敷地内に建設されました。しかし、明治維新後の1872年に首都東京に公使館が開設されたことに伴い、函館の領事館は日本で唯一のロシアの外交窓口としての役割を終えました。
 2番目の領事館の開設は、露領漁業(後の北洋漁業)の勃興・発展と密接に結びついていました。20世紀初頭、函館は露領漁業の基地としての地位を確立します。ロシア政府は、出漁関連の各種事務を執るために、事務所兼公邸としての役割を担う、西洋建築の領事館を建てることにします。
 船見町の幸坂の高台に建つ「旧ロシア領事館」が1908年12月に完成するまでは、旧園田邸(「函館市公民館」の建つ青柳町12-7)や現在「咬菜園跡」として知られている船見町3-8 に場所を借りて事務がとられました。
 ロシア革命、続く国内戦争を経て、1925年1月に「日ソ基本条約」が締結されたことで函館にソ連領事館が開設されます。しかし、帝政時代最後の領事レベデフ(昨年度のベリョースカクラブでお話した、「東洋学院卒函館領事 E.レベデフ」)が函館を去った後、「旧ロシア領事館」は修繕が必要だったため、「旧キング邸」、通称「堤倶楽部」にオープンし、しばらくの間はここがソ連領事館となりました。
 終戦の前年(1944年10月1日)に領事館は閉鎖されますが、それまでの約半世紀の間、サハリン、沿海州、カムチャツカ方面の漁場に向かう日本人のために、査証(ビザ)や出漁に必要な証明書類を発給しました。他地域(モスクワなど)、他の目的(新聞記者の現地取材や観光目的など)での渡航者への査証を発給することはできないことも函館の領事館の特徴でした。
 そして3番目の領事館が、現役の「在札幌ロシア連邦総領事館函館事務所」です。2003年9月に開設され、北海道・青森県・岩手県を管轄区域とし、商用・観光・留学を目的にロシアに渡航する日本人に対するビザを発給しています。
 「旧ロシア領事館」の建物と土地は、現在函館市の財産です。建物は、戦後外務省から購入し、1965年から1996年までの約30年間、青少年の宿泊研修施設「函館市立道南青年の家」として活用されました。土地は、戦時中、敷地をめぐる騒動が何度か持ち上がり、1939年に日魯漁業が買い上げていたため、1981年に函館市が日魯漁業から取得(市有地と交換)しました。
 現在、「旧ロシア領事館」の建物は外観のみ一般開放していますが、昨年、17年ぶりに内部が一般公開され、大勢の市民が訪れたことは記憶に新しいところです。今年に入ってからも時々開放されています。来る8月には、市民団体が活用策を国内外に募った設計競技の最終審査が実施されるなど、今、「旧ロシア領事館」の復元・活用に大きな関心が集まっています。
 終了後、受講生から、市は「旧ロシア領事館」を復元するのか、という質問がありました。閉鎖から20年近く経つ「旧ロシア領事館」は、函館とロシアの交流の歴史を示す象徴的施設です。今後の動きに注目したいものです。
※函館の旧ロシア領事館についてさらに関心のある方へ。
倉田有佳 著
・「二十世紀の在函館ロシア(ソ連)領事館」『ドラマチック・ロシアin Japan II』生活ジャーナル、2012年、290-309頁。
・「東洋学院を卒業した函館領事レベデフ」『日露異色の群像30 文化・相互理解に尽くした人々』東洋書店、2014年192-208頁。
・「函館の「旧ロシア領事館」案内」『函館日ロ交流史研究会 会報』33号(2012年)
http://hakodate-russia.com/main/letter/33-03.html
・「函館のソ連領事館と日本人職員」『函館日ロ交流史研究会 会報』30号(2007年)
http:// http://hakodate-russia.com/main/letter/30-04.html