今年開基150年を迎えたウラジオストクと函館のつながり Ⅱ
開基間もない頃のウラジオストクと函館の接点を持つ人物をロシア人と本人、各1人ずつ紹介します。まずロシア人では、ニコライ・マトヴェーエフの名を挙げさせていただきます。ニコライ・マトヴェーエフは、1865年(66年説もあり)函館で生まれました。1861年に箱館のロシア領事館付司祭として着任したニコライ(ニコライは、東京お茶の水の「ニコライ堂」の名の元になった人物)によって洗礼を受けた「日本で生まれた最初のロシア人」としても知られています。ニコライ・マトヴェーエフの父親のピョートルというのは、箱館のロシア病院の准医師をしていました。ロシア海軍病院のことですが、日本人に対しても無料で治療しており、北海道初の日本人職業写真家として知られている田本研造の脚の切断手術をしたのは、父親のピョートルだったとされます(桧山真一「ニコライ・アムールスキイ日本におけるロシア人召使」『地域史研究はこだて』第18号)。
ニコライ・マトヴェーエフは、幼い頃に両親を亡くし、後にロシアに戻り、ウラジオストクでジャーナリスト、詩人として活躍したほか、市の行政に関わる人物となります。たいへんな日本びいきとしても知られており、浦潮本願寺の布教場を建てる際には、そのための用地獲得に大いに尽力したと言われています。ロシア革命後は日本に亡命し、1941年に神戸で亡くなるまでの約20年間、関西方面でロシア語書籍商として生き、日露間の文化交流に努めました。お墓は、神戸の外国人墓地にあります。
一方、函館とウラジオストクを結んだ日本人としては、小島倉太郎がいました。小島倉太郎は、江戸幕府の箱館奉行所の足軽の息子として1860年函館近郊で生まれました。父親の転勤に伴い、日露雑居時代の樺太(1875年の樺太千島交換条約締結以前のサハリン)のクシュンコタン(大泊、現在コルサコフ)で育ちました。幼い頃にロシア人商人パヴルーシンの下に預けられ、ロシア語を習い、東京外国語学校の最初のロシア語生徒の一人となり、卒業後は開拓使に就職し、役人として対露関係の仕事をしていました。1890年に遭難したロシア東洋艦隊輸送船「クレイセロック号」の航跡探索の際には、ロシア海軍軍医ブンゲとともに探索した功績によって1894年にアレクサンドル3世からスタニスラス第3等勲章を受勲しました。
倉太郎は役人として活躍しただけではなく、「ウラジオストク新聞」の初の外国人通信員として、自ら執筆した記事を投稿し、「ウラジオストク新聞」の記事から翻訳したロシアの情報を「函館新聞」に載せるなど、日ロの架け橋的存在ともなったのです。惜しまれることには、1895年に35歳の若さで病死しました。なお、小島倉太郎関係の写真(アルバム)や資料は、市立函館博物館が所蔵しています。
そして函館とウラジオストクの関係を語る上で、必ずご紹介しておきたいことは、1908年、地元の商工 会が寄付集めをするなどの支援を受ける中、函館商業学校の学生39名が、夏休み期間を利用してロシア語の実地を兼ねた商工業調査のためウラジオストクを訪問したことです。現地では、学生たちは片言のロシア語を使って買い物し、商店や日本領事館で商工業調査を実施しました。ドイツ人が経営する一等商店クンスト&アリベルス商会では(メインストリートのスヴェトランスカヤ通りに建つ建物は、現在も百貨店として使われている)、商品の陳列方法のうまさや店員が親切で接客態度が迅速であることに驚き、この店に電動式のエレベーターが備わっていることが「感嘆に堪えない」などと、先進技術に触れた率直な印象を報告書に書き記しています。たった2日間の滞在ではありましたが、函館の将来の商工界を担う函商の学生にとって、ウラジオストク訪問は貴重な体験となったに違いありません。
ウラジオストクからは、現在の極東大学の前身に当たる東洋学院(ここでは、中国・朝鮮・モンゴル・日本といった隣接するアジア諸国の言語を実地に使いこなせる人材育成を目指し、1899年に設立された)、1902年、ロシア人学生アレクセイ・コヴェリョフが函館に研修に訪れました。つまり、相互往来があったというわけです。