極東の窓

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函館郊外に暮らした旧教徒とロシヤパン

一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。
テーマ: 函館郊外に暮らした旧教徒とロシヤパン
講 師: 倉田 有佳(教授)
 旧教徒(古儀式派)のことは、近年、ロシア政治史の研究者から注目されているテーマでもあります。旧教徒とは、17世紀後半、ニコンの改革に反対した人たちです。十字を切るときは二本の指ではなく三本指で切ることに代表されるように、ニコンの改革は同時代のギリシャ正教会の慣行を模範とするものでした。政府が認めない信仰であったため、旧教徒は国内ではシベリアに代表される僻地に、あるいは外国に集団で逃亡・移住する場合が多々ありました。
 函館の旧教徒に関しては、中村喜和一橋大学名誉教授の研究論文「銭亀沢にユートピアを求めたロシア人たち」(『地域史研究はこだて』17号、1993年)や『函館市史 銭亀沢編』(1998年)に詳しく紹介されています。中村教授は、旧教徒が函館を選んだ理由について、旧教徒には守るべき厳格な信仰生活があり、清い水があり、焼畑農業を行うことが可能な場所といえば北海道(函館)以外に日本の中では見いだせなかったこと、函館から樺太やカムチャツカ方面など露領漁業に出かける日本人とロシア極東の旧教徒の接点の二点を挙げています。
 函館に旧教徒が現れたのは1910年頃のことで、二家族7名が新川町や松風町(当時は函館区)に暮らしていました。数年後、笹流・団助澤(当時は銭亀沢村)に移り住むようになり、さらに数年後には湯の川(当時は湯川村)に暮らす人たちも現れました。ピーク時は1924、25年の約30名で、ワシーリエフ、サヴェーリエフ、カルーギン、ザジガルキンといった一家が暮らしていたことがわかっています。彼らは自己の信仰を守りながら、川近くで農作業を行い、厳格な宗教的規律に則って自給自足的生活を営んでいました。
 彼らの風俗習慣が当時の新聞記者には珍しかったのでしょうか、函館新聞はじめ、地元紙には旧教徒のことがあれこれ報じられています。それらを総合すると、パンの製造販売で生計を立てていたのは、1910年頃(新川町時代)と1924-26年頃(湯の川から五稜郭方面や朝早くから函館の街までに売りに行った)でした。空白の期間は、カムチャツカの漁場へ出稼ぎ(1913-14年頃)、団助澤で収穫した野菜を馬車に乗せて町で販売(1919年)、湯の川温泉の千人風呂まで馬車で送る(1921年)、ブラーガ酒という旧教徒に許されたアルコール飲料の製造販売(1923年)を行っていたことがわかります。
 ロシヤパンに関する記憶ですが、銭亀沢の漁港に黒パンを売りに来ていた姿(『函館市史 銭亀沢編』)、長谷川四兄弟の妹玉江さんが、三男濬が団助沢に行ってロシア語を覚えたため、赤ら顔のロシア人が家に黒パンをよく持ってきてくれ、それを喜んだ姿(長谷川玉江「長谷川家の人々と函館」『地域史研究はこだて』25号)が記録に残されています
 旧教徒を支援する日本人もいました。銭亀沢の名士中宮亀吉、ロシア語を解する「山崎くん」や漁業家の澤克己です。しかし、1925年を境に旧教徒は函館から去って行きます。収入の不足、野草の実が少ない、耕地が少ないなど、函館の暮らし難さを理由として挙げていたようです。結婚あるいは縁者を頼って本州(盛岡、仙台、名古屋など)へ移住する人たちもいましたが、多くの場合、地理学者の小田内通敏や木下函館税関調査課長の支援・協力を受け、樺太(旧教徒が集住する亜庭湾付近の荒栗村など)に移住しました。
 まとめてみると、函館のロシヤパンは、亡命ロシア人の記憶と共に今なお語り継がれていますが、製造販売に携わっていたのは旧教徒でした。函館に来て間もない頃、あるいはカムチャツカへの出稼ぎやブラーガ酒の製造販売などで現金収入が得られなくなった時、ロシヤパンの製造販売を生業として始めます。しかし、頼みの綱の「パン」では生計が成り立たなくなり、函館を去ることにした、と倉田は考えています。