極東の窓

ロシア極東連邦総合大学函館校がお送りする極東情報満載のページ。
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劇作家・チェーホフ

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第6回目の講話内容です。
 テーマ:「劇作家・チェーホフ」
 講 師:アニケーエフ・セルゲイ(本校教授)
 チェーホフは明治以来、日本でもっとも愛されたロシア人作家の一人でしょう。広津和郎や伊藤整、小林秀雄など多くの作家が彼を愛し、論じてきました。また演劇界での影響も大きかった。
 アントン・チェーホフは、南ロシアのアゾフ海沿岸にあるタガンローグで1860年に生まれました。家は祖父の代まで地主付きの農奴でしたが自由を獲得し、父は小さな食料雑貨店を営むようになりました。つまり、チェーホフはまったくの平民であります。この事実は、この作家を理解する上で重要な手掛かりと言えるかもしれません。
 生まれ故郷で中学を卒業したチェーホフは、モスクワ大学医学部に進学します。「医学は僕の正式な妻、文学は恋人」とは、彼がよく戯れに口にした言葉です。医学部入学の頃から、原稿料で家計を支えるため、当時流行していたユーモア雑誌への投稿を始めたのですから、医学とも文学ともほぼ同時に付き合いだしたことになります。
 「恋人」たる文学は、やがて医学を押しのけることになります。滑稽ものの枠に飽き足らなくなったチェーホフは、本格的な文学作品を書き始めます。当時ロシア文学は転換の時を迎えていました。ドストエフスキーとツルゲーネフが相次いで亡くなり、トルストイは宗教へ向かって、大作家たちの時代が終わろうとしていたのです。
 チェーホフが前の時代の大作家たちと趣が違っていたのは、長編小説を書かず、短編を創作の中心としたこと、それに思想性を前面に出さなかったことでしょう。ロシアでは伝統的に、文学にも主義主張を要求する傾向が強かったので、チェーホフの作品は「無愛想、無傾向」だと批判する声も根強くありました。しかしチェーホフは「問題を解決するのが文学者の仕事ではない」と批判を突っぱね、あくまで己の資質に忠実でした。
 1890年、チェーホフはすでに結核におかされた身体で単身サハリン島に向かいました。馬車でシベリアを横断し、流刑地サハリンに渡り、懲役囚人の調査にあたります。サハリンで日本人に会って一緒に写真を撮るなど、日本人にとって興味深いエピソードも残されています。帰りには日本に立ち寄りたかったけれど、コレラが日本で発生しているというのであきらめ、船でマニラやシンガポール、スエズ運河を通ってオデッサに着きます。
 チェーホフの作品は、ロシア文学全体と同じように社会的に抑圧された人や弱者に対するヒューマニスティックな態度や同情、人道的な理想主義があります。事実それが、ロシア文学に対する評価とされています。ロシア文学の持つ一つめの特徴として、自然というものを主体的にとらえようとする、共生しようとする姿勢。二つめは対象を徹底的に追及するラジカリズム、それを通じて人間存在のナゾに迫ろうとする姿勢。第三番目に文学が問題を解決するのではなく、真の問題が何であるかを提示する姿勢。それらを一貫してきたことが、特に19世紀ロシア文学に対する日本を含めた一般的な見方であり、ロシア文学の本道として世界の人々に読まれてきた理由だと思います。
 チェーホフはサハリン旅行を終えて、モスクワの南のメリホヴォ村に移り住み、作家として非常に盛んな時期を迎えます。それと同時に防疫医としてコレラ予防に協力したり、小学校を3つも建てたりして地域でも積極的に活動しました。
 1897年に大喀血、翌年クリミヤ半島のヤルタに治療目的で転地し、珠玉の恋愛小説「犬を連れた奥さん」など、チェーホフ文学の完成度の高さを示す名作を残します。また晩年には戯曲にも新しい立場を開き、劇団モスクワ芸術座で1898年に「かもめ」を上演して大成功を収めます。それ以後、戯曲の執筆が本格化し、看板女優であるオリガ・クニッペルと結婚、妻に主要な役をあてる形で「ワーニャ伯父さん」、「三人姉妹」、「桜の園」を次々に書きます。これらの戯曲に共通の特徴として、唯一の主人公がいないことがあげられます。大きな事件はどれも舞台の外で起こり、観客の前では起こらないことも特徴の一つです。チェーホフの小説にも通じる、静かで動かない印象を与えます。
 最後まで新しい試みに挑戦した彼の戯曲は、いまだにその魅力を失わず、世界各地の劇団で上演されています。
 ヤルタでの療養にもかかわらず結核は進行し、チェーホフは1904年7月、転地先のドイツの鉱泉地バーデンワイレルで妻に看取られて亡くなります。享年44歳、日露戦争の真っ最中でありました。
 最後にニキータ・ミハルコフ監督の映画「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」(1977年)をビデオで鑑賞しましょう。これはチェーホフが大学時代に書いた処女作の戯曲「プラトーノフ」を中心に、いくつかの作品を組み合わせたもので、チェーホフの劇を見事に映画化した作品です。チェーホフ喜劇の笑い、リズム感、居心地の悪い沈黙をこれほど鮮やかに軽妙に映画化した作品はないと言われています。