極東の窓

ロシア極東連邦総合大学函館校がお送りする極東情報満載のページ。
函館から、ウラジオストクから、様々な書き手がお届けします。

第3回ベリョースカクラブ「ウラジオストク」

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第3回目の講話内容です。
テーマ:「ウラジオストク」
講 師:イリイナ・タチヤーナ(本校准教授)
 ウラジオストクは1860年、探検家によって発見されました。それまではタイガばかりで何もないところでした。ウラジオには金角湾という湾があります。これはトルコに似た湾があり、その名前から名付けられました。
 今年9月にはAPEC首脳会議が開催されますが、その前に金角湾に橋が架けられました。それはウラジオストク人の長い長い夢でした。対岸に渡るにはとても時間がかかるので、橋が必要でした。もう一つはAPECの会場となるルースキー島との間にも橋ができました。今まで島には小さな定期便で移動していたので、とても不便でした。APECの会場は、会議が終わったら私たちの大学の施設になります。キャンパスがルースキー島に移転します。
 ロシアは1998年にAPECに加盟しました。加盟国は現在21ヵ国あります。APECのために、ウラジオストクには5つ星のホテルができました。なぜ政府は開発にお金を出したか?理由は、極東地方は人口減で若者は少ないからです。そして中国人が多い。企業は、以前は軍艦関係が多かったけれど、今は違います。政府はウラジオストクの発展のためにお金を出しました。水族館も作りました。今、街はすごくきれいです。
 メインストリートのスベトランスカヤは、船の名前から来ています。ソ連時代にはレーニンスカヤという名前でした。その時代はどこの街でもメインストリートはレーニンスカヤでした。
 ウラジオには空港はなく、隣町にあります。APECの前に新しくなりました。空港からの道も作りました。20分で市内中心部へ着くことができます。
 ウラジオストクは最初、中国人が多く、彼らはくるみやベリーを集めて暮らしていました。先住民はオロチ族です。最初はウラジオストクには女性はいませんでした。罪を犯した女性が送られ、町が作られるようになりました。ヨーロッパスタイルで美しい建物ばかりです。ロシア人が住むようになり、アメリカ・オランダ・日本が会社を作りました。日本人も多くいました。
 裏道に入ると、古いスタイルの建物が残っています。2階まではしごのある家などは日本式ではないですか?ロシアにはこういうスタイルはありません。
 1917年にロシア革命が起こりましたが、ウラジオはモスクワやペテルブルクからはあまりに遠い。だから5年間、ウラジオは昔のままでした。1922年にソ連兵士がウラジオに入り、すべての外国人は船で帰国しました。
*ウラジオストクの地図や観光ビデオを見ながら、現在の街の様子を解説しました。