極東の窓

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90年前の避難民:北樺太のロシア人、北海道(小樽・函館)へ

 一般向け文化講座「はこだてベリョースカクラブ」の今年度第4回目の講話内容です。
テーマ:90年前の避難民:北樺太のロシア人、北海道(小樽・函館)へ
講 師:倉田 有佳(本校准教授)
 今年、2015年は、色々な歴史的出来事の節目の年でした。まず市立函館博物館では、千島樺太交換条約締結140年を記念し、8月末まで特別展が開催されました。同じく8月は、終戦70年ということで、新聞やテレビ番組で特集が組まれ、戦争を振り返る機会が多かったと思います。
 
 本日取り上げる事件と深く関わっているのが「日ソ基本条約締結」(1925年1月20日北京で調印)で、今年はちょうど90年を迎えました。
 『函館市史』によると、函館市ではこれを祝って大々的な祝賀会が開かれただけでなく、市中では、商工連合会主催の提灯行列が行われました。なにしろ、サケマスの宝庫カムチャツカへの出漁基地函館にとって、「ソ連」領事館に名前を変えた領事館で査証(ビザ)や船舶証明書などが発給され、合法的かつ安全に出漁できるようになったことは、大きな喜びだったのです。これが日ソ基本条約締結の「光」の部分です。
 では、「影」の部分はというと、日本軍の保障占領下にあった北樺太から、日本(小樽・函館)へロシア人・ポーランド人が避難してきたことです。北樺太が日本軍の保障占領下に置かれるきっかけとなったのは、1920年にアムール川下流域のニコラエフスクで起こった「尼港事件」にありました。これは革命派のパルチザンによって数百名もの日本人の軍人や民間人が虐殺された事件で、日本政府は、この問題解決に必要な正式な交渉相手となる政府が誕生するまで北樺太を保障占領することに決めたのです。
 日ソ基本条約の締結は、日本政府がソヴィエト政権を正式に承認したことを意味していました。これにより日本軍は北樺太から撤退することになり、反革命派、資産家、「親日派」のロシア人やポーランド人は、ソヴィエト政権からの圧迫や後難を非常に恐れ、北樺太からの避難・脱出を決意します。
 避難は1924年9月に始まり、日本軍が完全に撤兵する直前(1925年5月半ば)まで続きました。約8カ月の間におよそ300人が北樺太を去ったと考えられます。
 多くの場合、亜港から小樽に向かう定期便や軍の御用船で避難しました。南樺太(北緯50度以南の日本領樺太)に農業移住、あるいは親戚や知人に呼び寄せられて移住する人もいました。いずれの場合も、日本への渡航証明書は日本の軍政部が発給したため、日本への入国で大きな障壁となったのは、1920年2月に導入された250円もしくは1500円の「提示金制度」、つまり所持金でした。
 上陸が許可された避難者の多くは、日本で「露国避難民身元証明書」(「ナンセンパスポート」)を取得し、当時移民の受け入れに積極的だったブラジルやメキシコ、あるいはロシア人が亡命生活を送っている上海やハルビンへと向かいました。ポーランド人の場合は、数家族がまとまり、ポーランドに「帰国」するケースもありました。
 
 日本に留まるロシア人はそもそも少数派でしたが、日本の物価高や生活習慣の違い、あるいは自分に適した仕事が見つからないといった理由から、長くは留まりませんでした。そうした中でも函館に留まった一家がありました。北樺太で雑貨商を営んでいた資産家のシュウエツ家です。本校からすぐ近くにある「カール・レイモン旧居宅」は、元はと言えば、ドミートリ・シュウエツが建てたものです。しかし一家は、ドミートリが1934年に列車事故で亡くなると函館から去って行きました(ロシア人墓地にはドミートリの墓があります)。また、裁判官で、日本の軍政部に雇われていたアンドレイ・ロマーエフのように、戦前大阪外語でロシア語教師を勤め、日本で生涯を終えた人もいました。
 昨今、内戦が続くシリアなどから欧州に流入した難民や移民が大きな問題となっていますが、日本政府は難民支援に協力しても、日本への受け入れには消極的です。本日お話した90年前に至っては、できるだけ避難民を受入れないようにしていたことがわかります。確かに、「提示金制度」のおかげで、日本にはハルビンのナハロフカのようなロシア人の貧民窟は発生せず、社会的安定が保たれました。しかし、果たして人道的立場からいえばどうなのか。そんなこともこの機会に考えてみていただければと思います。